綿半の歴史

1582年、本能寺の変で織田信長が討たれた時、織田方の家臣に中谷勘右衛門という武将がいました。この時、中谷勘右衛門は、武田氏を制圧し、甲信州を治めているところでした。
統率を失った織田勢は混乱し、中谷勘右衛門も、苗字帯刀を捨て、名を仁兵衛と改め、飯田に移り住みました。
その後、仁兵衛が16世紀後半に、長野県飯田地方で興した綿の商いが「綿半」の始まりです。
以後、仁兵衛の子孫である綿屋半三郎の代から「綿半」という屋号を用いるようになり、これが「綿半」の由来と伝えられています。

江戸時代になると政治・経済も安定し、綿が重宝されるようになりました。
仁兵衛は綿栽培を周辺農家へ広げ(契約栽培)、天竜川を利用して出荷しました。
やがて、仁兵衛の子孫は、飯田藩御用達商人となり、苗字帯刀を許され、江戸末期まで順調に綿商いを続けました。

明治に入り、近代産業が導入されると、綿の商いを古参の店員に譲り、洋鉄やセメント等を扱う金物商に事業転換を図りました。

そして、1949年に株式会社綿半鋼鉄金物店を長野県飯田市に設立し、戦後の復興に基づくインフラ整備の流れに乗って、建設資材の卸売業を行うようになりました。

1966年には綿半鋼機株式会社に商号変更し、高度経済成長に伴い、屋根工事・鉄骨工事から、内外装等まで手掛ける建設専門工事業へシフトし、施工技術力を磨き、確固たる事業基盤を築き上げました。

一方、建設資材卸売業からの派生で1977年に株式会社綿半ホームエイドを設立し、長野県長野市にホームセンターを出店しました。

2003年にはグループ各社の責任を明確にすると共に、グループの総合力の発揮を狙い、持株会社制に組織改変し、綿半ホールディングス株式会社に商号変更しました。

2007年以降は、ホームセンター商材に加えて、生鮮食品を扱うスーパーセンター化を進めたことが、その後の高い成長につながり、建設事業と並んで、大きな事業の柱の一つとなっています。

2010年には、新規事業分野として、ミツバ貿易株式会社の全株式を取得し、貿易事業に進出しました。

このように、危機からチャンスを見出し、道を切り開いていく『変革の精神』が、400有余年を生き抜いてきた綿半のDNAであることをご理解いただければ幸いです。

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